夢 鏡  (お侍 習作126)

       〜 お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 


        2

    所属も身分も曖昧ならば、住処も定めない、
    世に言う“浮草暮らし”の日々を過ごすようになって、
    もうどのくらいとなるものか。
    あの長い長い大戦がそれはあっけなく幕を引き、
    不要な存在となった軍人が“浪人”として世にあふれ、
    自分もまたその中の一人であったまでのこと。
    特に栄えある後生を望むでもなくいた身には、
    最も相応しいありように落ち着いたまでのことなのかもしれず。
    根無し草な性分だという自覚はなかったが、
    何かが麻痺していてこそ、歪んでいてこそ、
    “人斬り”などという技を極められていた侍。
    よって、戦さ以外に生き方を見いだせぬのもまた道理…という言い方は、
    不精な不器用者の、ただの言い訳に過ぎぬものだろか。



 巷で“褐白金紅”と呼ばれるほどの練達二人。彼らが請け負って来た仕事には色々なものがあったれど、最も多いものはというと、やはりというか恐れもなくというか、数に任せて寒村を襲っては米やら作物やらを奪ってゆく、野伏せり崩れらしき無法者らの掃討だ。天主との内輪もめによる相討ちで、一気に滅びたとされている“野伏せり”だったが、その体躯が小さいものほど執拗に逃げ延びているようで。手ごわいとされる一団には、たいがいの必ず、甲足軽
(ミミズク)や鋼筒(ヤカン)乗りが数名混ざっていたけれど、大きさや武装がそのまま戦艦並の脅威であろう紅蜘蛛や雷電級の手合いが相手でも、その手で一刀両断出来るほど、抜きん出た使い手である勘兵衛と久蔵。恐れるに足らずと余裕で訪のい、さっそくにも対処にかかる頼もしさ。彼らにしてみれば、むしろ生身の人間が相手の方がその成敗も生々しい印象が強く。女子供にはあまりいい影響を残さないのでと、依頼のあった里や村からは離れたところでの仕置きと運ぶよう、心掛けているらしく。

 『お強いからこその余裕でしょうね。』

 ただ待ち受けて片っ端から斬り伏せるばかりじゃあなく、後日の事までと そんな算段が色々と出来るところからして、軍師としての周到さ、錆びさせてはいないことの証明でしょうよと。これはいつぞやに平八が下さった、称賛のお言葉だったのだけれども。

 『なんの、人斬りがその罪や業、見せびらかしても詮無いからの。』

 相変わらずなお言いよう、伝言役だった七郎次に返した壮年殿であったとか。謙遜というより心からの本音だろうし、侍とは人斬りとしつつ、なのにそうやって心凍らせぬまま、その所業を咎
(とが)として把握し真っ向から向かい合っている彼は、そんな不器用な男のままでその生涯を終えるつもりであるらしく。それが間違っているとは言えぬ故、絆(ほだ)してやれぬが何とも歯痒い困ったお人だと、見守る七郎次らにまで切ない想いをさせている、罪なお人なのも相変わらず……。




     ◇◇◇



 そんな彼らがまたもや依頼を引き受けて訪れた土地は、辺境も辺境、よくもまあこんなところに住む気になったと思わせるような谷の奥。外の里からこの村へと通じている一本道は、岩壁に切り出されたような細道で、片側に渓谷の縁を見下ろす言わば難所。周囲は緑など申し訳程度にしか生えぬ岩山で囲まれており、

 『何かを産す処というより、
  元々は近隣の山々から材木や柴を降ろして運び出すための集約所。
  その後は長旅の狭間の中継地、荷役向けの宿場やったらしいんで。』

 しかも、どういう地盤か毎日夕方の定刻になると異臭のする瘴気が漏れ出す、硫黄の谷の奥向きでもあり。
『へえ、風向きはわしらには都合よく外へ外へと吹いとりますだに、害はいっこもありゃあせんのですが。』
 むしろ、それのお陰で夜陰に紛れてのそろそろとは近づけぬ、言わば自然の要衝に守られて来た里でもあったのだが。そんな地盤の上だけに、さして珍しいものが収穫されるでもない。元は鉱山ででもあったのか、先の戦さで土地が徴収されはしなかったというから、それほど大掛かりな採掘がなされていた訳でもなく。第一、そんな話なぞ欠片ほどにも残っちゃあいない、陰気なくらいに地味で静かな片田舎。他所へ行くだけの財もないまま、しょうことなしに居残って住んでる者らの、日々の食いぶちが精一杯な土地だというに。そんな特殊な地の利にこそ目をつけたらしき賊の一団が、近年うるさく近寄って来るようになっており。先日はついに、子供が攫われ、問題の谷底へ縛り上げられて放り出されていたそうで。発見が早かったので命だけは取り留めたが、

 『何もわしらを追い払ったり、皆殺しにしたりするつもりはないと。
  何をしたいだか、労働力として召し上げてやっから投降してこいと。』

 随分と大上段からの物言いで、頻繁に脅しをかけてくるのが不気味。逃げ出したいのは山々だけれど、そんなところを襲われてはひとたまりもなかろうと、二進も三進もいかずで往生していたところへと。噂を聞きつけた州廻りのお役人様がお手配下さったのが、凄腕と評判の賞金稼ぎのお二人で。

 『…お二人だけで、大丈夫だか?』

 役人からの身元を証明する書き付けを検分した庄屋の老爺は、しわに埋もれそうになっていた小さな双眸をちょいと眇めると、それをたずさえて来た二人連れを見上げ、う〜むと小首を傾げた。お武家様には違いなかろう、いやさ、お侍様というのは こうも頼もしく凛々しいお人らのことだったかと、あらためて感服しもしたほど。恰幅のいい壮年様のほうは、煤けた砂防服に延ばし放題の蓬髪という、いかにも尾羽打ち枯らした浪人風の風体でおわすのに。昏い色した双眸は凛然と鋭く、だのに、それを悟らせぬよう目許細めて微笑むと、そりゃあ穏やかそうな頼もしさが滲む。少し乾いた声音には、だが、落ち着きのある響きがあって、人の話をしっかと受け止め、ようよう聞き入る態度と合わせ、知識とそれから、人の機微というものへの深い洞察や理解のある、奥行きの深い人であろうことが重々窺えて。重ね着をしていて輪郭の判りにくい肢体のほうも、年頃に似合わぬ筋骨を いまだ保っていなさるのが、大きな手の重そうな骨格と、その機敏な所作とで庄屋には判ったけれど。

 『……久蔵?』

 片やのお若いお連れの方は、それが挑発目的の故意になら、なかなかに自信のある傾
(かぶ)きよう。外套を兼ねた深紅の衣紋も、名人がこさえた人形のような冷たい美貌も、鄙びた辺境の地にあっては いきなり降って咲いた花のようだが、終始のずっと 寡黙で無表情でおわすのが、近寄り難い鋭気をはらんで恐ろしく。人と接するのは便宜も難儀もすべて連れへと任せての、何が見えるか聞こえるか、彼にはそれが役目であるかのように、周囲の空気を肌で嗅いでの追ってるばかり。隙のない猛禽か猟犬のようとは、のちに誰ぞが例えた言いようだったが、こちらから話し始めるより前に、硫黄の瘴気に気づかれたのは確かにおさすがで。それにしたところで…不意に気づいたそのまんま、何とも告げずに駆け出した唐突さが、それで通じる壮年様にはともかく、慣れぬ者を怯ませるには十分なそれだった。
『硫黄、か。』
『へえ。』
 噴き出してはない昼間でも、すっかりと土地に染みついたせいだろう、腐卵臭が仄かにしてはいた。だが、金髪の若いお侍が気づいたのはそればかりではないらしく、村人らの小じんまりとした住居が身を寄せ合う、主村落の集落の外れの方へと向かうと、今にも崩れ落ちそうな地蔵堂の裏へと回る。木立があって狭苦しい隙間であるのに、痩躯が無理なく収まって、その身を屈め、土台をじいと検分している。何があったかと怪訝そうな顔をするお連れへ、見るより先に思い当たったらしい庄屋の息子が言ったのが、

 『あ、もしやして“血の水”に気づかれたべか。』
 『“血の水”?』
 『へえ。』

 朴訥そうな青年が言うには、里の奥向きでは妙に赤い水が涌くのだそうで。匂いも潮臭いので、村人らは“血の水”と呼び、畑へ流れ込まぬようにと水路にも工夫をしているのだとか。そんなこんなと話すうち、指先で触れてみたらしき久蔵が、橙がかった色に染まった細い指先を、自分の外套の腰当たりで無造作に拭いつつ戻って来たの、目許をやや眇めつつ眺めた勘兵衛が、

 『…そうか。この土地、鉄の鉱脈も走っておるようだの。』

 ぼそりと。独り言にしてはくっきりとした言いようをする。何のことやらキョトンとする純朴そうな若者の頭越し、
『鉄?』
 訊いたのは久蔵であり、
『ああ。しかも硫黄の匂いがする谷ということは、天然の溶鉱炉、熔岩流も間近にはありそうだと来て。工部の何人かを抱えてくればそれでもう、強力な武器や装備、若しくは薬品の類が思いのままに生み出せると踏んだのだろうよ。』
 短絡的な発想のようだが、案外とそういったことへの専門家を抱えている賊なのかもしれず。それでの執着ならば、相手を根こそぎ断つしか解決はない。相手陣営には甲足軽が数人いるというから、そやつらはすっぱり斬らにゃあならぬとしても。そんな魂胆あっての一派となると、威嚇のみにて散り散りになるよな可愛らしい連中じゃなかろうて。

 『人や物へじゃあない、この土地への執着だよってな。』

 強く追い払えば、それだけ価値も重き土地との誤解を深めた挙句、新しい陣営組んでまでして執念深く舞い戻る公算の方が大きい。事実、後で判ったのが、ここいら出身の年寄りに鉱山だったらしいとだけ聞いた工部崩れが、ならばと発案した段取りだったそうで。いいかげんな噂を勝手に信じた連中が、真実知っての落胆し、がっくり項垂れるのは構わぬが。そんな風評なぞ欠片も知らぬまま、巻き添え食わされる住人はたまったものじゃあない。


  『相判った。』


 全員を一気に搦め捕って収監するための、広域方面担当の捕り方の加勢を電信で頼んで、さて。それではそやつらを移送する段階にまで、からげて畳まねばならぬは我らの仕事と。壮年殿が何事か思案なさったのもいっとき。若いお連れへ後を任せ、明日にも戻るとだけ言い置くと、手ぶらのまんまで出て行かれ。居残りのお連れはお連れで、人々へ“数日ほどは出歩けぬから、その支度を”と準備にかからせ。ご自身は…里で一番高いとこ、物見櫓の上へ新たに掲げた差しもののよに、危なげなくもすっくと立って。時折吹き抜ける強い風にも動じぬまんま、赤い衣紋をひるがえしつつ、ただただ時を過ごされて。これはやはり、お縄を打つための加勢以外は待たぬまま、お二人ぎりで対処なさるおつもりらしいというのが知れて。ほんにお二人だけで大丈夫だベか? もしやして勘兵衛様は、何かとんでもない武器を持って来られようというのかも知れん、と。様々に取り沙汰しつつも、言われた通りの準備を村人たちが進めていた一方で。

 『そやつらが此処へと目をつけた切っ掛けのように、
  宝の山を運悪くも逃したと思われてはならぬ。
  あのような魔物へ何で関わってしまったのだろうかと、
  疫神が集うような場所だと、以降も避けて通ってもらわねばならぬでな。』

 それでと壮年殿が構えたは、関係人
(かかりうど)総てを連れて来た上で、その全員を漏らさず搦め捕るという、相変わらずに大胆な仕儀であり。

 『おお、そこなお人。もしやして鋼筒とかいう機巧にお乗りではないか。』
 『…何で判った。』
 『いやなに、着物の肘や脇に長年の擦った跡、光
(てか)りがついておったので。』

 まずはと、通りすがった目付きの悪いのへと声をかけ、

 『機巧に詳しい方々なれば、武士は相身互い、ひとつ訊いていただけぬかの?』

 古い鋼鉄の塊、雷電の指先か何かの部品らしき鋼板を、そこの奥山にて拾ったのだが町へ持ってきゃ少しは金になるかねぇと。濃色の蓬髪を高々と結い上げ、いかにも野暮ったい羽織をまとった、無知な田舎侍になりすましての見せびらかせば、
『…おお、それは。』
『お主、どこで拾ったと?』
 心当たりがあったればこそ、易々と釣られてくれた賊の哨戒役らに“もっと話を”と所望されるまま、彼らの塒までついてゆき。あそこにあるのは鉱脈なんかじゃあなくただの戦さの忘れ物、人造物の廃棄物なのかも知れぬという疑念をまんまと植えつけて、さて。

 『戦さ場跡なら話は別だ。』
 『さよう、さよう。』
 『はて、それはまたいかに?』
 『いったん加工されたものならば、
  せっかくの純度が硫黄に冒され、雨水に錆びて傷んでしまう前に、
  掘り出してしまうが重畳ということさね。』

 話の舵を巧妙に操っての、のんびり構えておったその尻をわざわざ叩いた格好で。運び出すには人手もいるだろと、居残りを許さぬ勢いで全員を塒から追い立てるまでにかかった時間が、最初に約した通りの1日。細い山道辿らせて、里の入り口、見えて来たのが夕暮れ間近い頃合いで。瘴気が噴く前にと気が急く面々の行く手へ立ち塞がったは、金髪痩躯の紅衣の侍。たった一人で何を無謀なと鼻で嘲笑った先陣数名、それぞれの得物を引き抜いて、道いっぱいに広がっての一斉に斬りかかったところが……

  ―― 削
(さく)と裂かれたは、無頼の側で

 触れるにも至らず、数歩を残して頽れ落ちた男ら自身、何が起きたか判らぬまんまであったに違いない。その背に負うた鞘への鐔鳴り、若侍が刀を収めたその印の響きがしたと同時に、口許が下卑た笑みに歪んだままの男らが、どうと倒れて動かなくなる。さしたる出血もなかったが、それは…脾腹を鋭く衝いての深々と斬ったそのあまりの鋭さと素早さに、裂かれた肉が再び張りついてしまい、吹き出すはずの血潮が外へ出るのを妨げられてしまったまでのこと。腹部が腫れたように膨れているのは、そこへと溜まった血潮のせいで。
「な…何だなんだ、お前らは。」
「そんな優男に殴られただけで伸びちまうとはよ。」
 荒ごとが久しいからって、お前ら鈍
(なま)ってやがるのかと。状況が判らぬがゆえの後陣からの野次が飛んだが、

 「なに、もはや応じは返っては来ぬさ。」

 それでの代わりだとでも言うように、すっぱりと応じたは…此処までを同行して来た野暮ったい壮年の浪人。いやいや、いつの間にやら絣の野暮ったい羽織を脱ぎ去って、黄昏に没しかかった褐色の岩壁にいや映える、褪めた白の砂防服をまといし彼こそは、

 「…赤い衣紋の金髪に、白い衣紋の深色髪の壮年だと?」
 「やや、まさか…っ。」

 どこか気の善さげな田舎者をとの装いもどこへやら。お顔を少ぉしうつ伏せての見据える格好、鋭く構えた眼差しに添わせると、それまでは野暮ったいだけだった顎髭も精悍な男臭さの一端にしか見えぬから不思議なもので。賊らの一団、導いて来たはずの彼が、今はその後顧を塞ぐもう一人の脅威。腰の得物の大太刀を、すらり、音もなく引き抜いて。

 「投降すれば何とか伸すだけに留どめよう。」
 「な…っ。」

 太刀の握りをじゃきりと返し、これでぶつだけなら斬れはせぬとでも言いたいか。ニヤリと笑って勘兵衛の放った一言に、賊の面々がいきり立つ。小馬鹿にされたとでも思うたらしいが…さにあらん、

 「ここいらの谷に噴き出すは、ただの瘴気にあらず。
  硫化水素というて、長く吸えば毒も同じの代物ぞ。
  土地を欲するのみならず、
  そこへ降りての作業を里の人々に無理強いさせんと目論むとは言語道断。
  そのような悪行を見過ごす訳にはいかんのでな。」

 大殺陣回りに至るおりだけは、太刀の柄を掴み締める装具としての白手套、その手へと履く勘兵衛であり。これはなかなか、かなりの度合いで憤怒を抱えてもいる様子。やわらかな皮革をぎりと鳴らしての握りも堅く、されど、肩や肘には力みを込めずの柔軟自在。近間から弾けるように襲い来た、まずはの一群をざくと押し切り、斬られてはないが剣圧に押し倒された輩は、
「ぐあっ。」
「ぎゃああっ!」
 駆け抜けざま、倒れ込んでるその手や腕、肘を、容赦なく踏みにじっての戦意を削いでおき。
「き、きさまっ!」
 次の陣列は何とか振り返っていての、身構えも真っ向。そのまま突っ込むと見せかけて、だが。高々と結っていたそれの、元結いほどいた蓬髪が風になびいて横へとたなびき。その隙間から覗いた鋭い眼光が、にんまり笑って細められたのに見据えられた何人か、えっ?と、まるでその視線にて弾かれたように後じされば、
「ぎゃあっ!」
 そんな彼らを盾にして、且つ、彼らもろとも勘兵衛を斬らんとしたのだろ。大きな体躯に見合った大型の大太刀、生身の人には両手もちの厚手の蛮刀、横薙ぎに振るった甲足軽
(ミミズク)らの、そんな手元へ飛び込んだ格好となっての邪魔になり、
【 な…っ。】
【 ええい、どかぬかっ!】
 もはや自力では動けぬ身と化した仲間らに倒れ込まれて、それを剥がすのへ手間取った一瞬の隙を衝き、

 「…っ。」

 手元へとぶれた視線が戻った視界の、そのどこにも勘兵衛の姿はなく。焦って見回したその首が、ずるとずり落ち。ちょいと回しただけの遠心力に押されて、足元へまでへ ごとりと落ちた。機巧系統をつないでいた導線が火花を散らして火を噴けば、左右に居合わせた生身の賊らが飛びすさって逃げる。

 「な…なんて奴だ。」
 「由之介様と直海様が…。」

 ここまでが、ほんの数分の仕儀。たったの二人で十人からをあっさりとからげ、しかもそのうちの二人は甲足軽という幹部格。大将格のやはり甲足軽がまだ一人、一団の只中に居残ってはいたが、
【 …くっ。】
 刀を抜きこそすれ、敵であるこちらへは斬りかかっては来ぬままに。周囲を取り巻く手下らをこそ、煽るように脅すようにと威嚇しての本人は動かぬつもりのようだったので、
「…チッ。」
 逃す訳には行かぬと定めた。よっての斬りつけんと駆け出しかけたところが、そんな勘兵衛よりも先んじて、

  ――― 轟っ、と

 賊らの陣営を力ずくにて吹き飛ばす疾風が一陣、鋭く吹きつけ。目にも止まらぬとは正にこのこと、だからこその風のような何物かに次々突き飛ばされてしまった面々が、狭い切り通しの片側、渓谷へ転がり落ちるのへも頓着せぬまま。ただただ一直線に突進をして来た存在が、風を切るよに銀翅を広げると。漆黒の機巧仕掛け、大柄な鋼侍の胴体を、ものの見事に輪切りにしてしまったものだから。
「ひ…っ。」
「ひぃやぁぁっっ!」
 その細腕にて鮮やかに、しかも眉ひとつ震わさずという冷静な処断であったことが、間近に目撃した残りの面々へ得も言われぬ恐怖を植えつける。結構な距離があったはずの先から一気に距離を詰めて来た跳躍力もまた、彼らにとっては信じられない所業と映ったらしく、

 「ば、化け物…。」
 「魔物だ、こいつら…。」

 居丈高に構えていたのが一変し、得体の知れぬ存在へ震え上がっての総身が固まる。無頼の輩として無辜の人々を怖がらせる立場にばかりいた彼らが、久方ぶりに味わった恐怖に違いなく。
「さぁて、いちいち斬るのも面倒だしな。」
 このまま谷へ蹴転がされたいか? それとも大人しく投降するかね。ようやく駆けつけた捕り方の気配を向背に感じ取った勘兵衛が、双刀引っ提げた久蔵との間に挟まれた残りの陣営へとそんな声を掛けたところが、

 「…だ、誰がそんなお為めごかしに乗るものかっ。」

 さんざ非力な農民ばかりをいたぶった野盗が、無事な仕置きをされて済む筈がない。捕まってしまえば後は極刑が待つばかりと、そうまで思い込んでたらしき、肝の小さい奴が破れかぶれで飛び出して来た。さして腕の立つ者でもなかったようで、
「無駄なあがきを。」
 刃をかざすまでもないと、先杖のようにして突っ通して来た太刀の切っ先、手元の柄頭にて横ざまに払いのけたところが、手や腕のみならず、その身ごと吹き飛ばされた尻腰のなさ。さして幅がなかった山道の、岩壁の方へと突進し、そこで止まればいいものを、壁に当たった反動にも負けて、今度は後方へと後じさり、


  ―― え?


 いくらしゃにむであったと言っても、無事な方へと薙ぎ払われた身がなんでまた、危ない方へとわざわざ戻ってゆくものか。斜面だというのは滸がましい、真下の涸れ渓谷へと連なる、ほぼ垂直の絶壁になったその縁へ、後ろ向きのまま まろぶように突き進むその野盗の小男の腕、はっしと掴んだ人があり、

 「な…っ!」

 はっとした久蔵がいち早く動いたが、間に居残っていた賊の残党が邪魔になり、それらを乱暴に掻き分けての駆けつけたときには既に、そこに勘兵衛はいなかった。見下ろした足元は、小高いところへと見積もっても10m以上は落差のあろう崖の下。予感があっての落下で、途中までは足がついていての、何とか駆け降りようとした悪あがきを利かせられたとしても。角度が角度だ、この傾斜にそんな咄嗟の対処が最後まで生かせるとも思えない。頑丈さがものを言い、奇跡的に命は無事でも、手足や肋骨の何本か、折れていて当然という一大事で、


  「……島田っっ!」


 呆然としていた周囲の賊らが、跳ね上がったほどもの悲痛な声で、その名を呼んだが応じはなかった。夕刻だけ噴き出すという有毒の瘴気が充満し始めている谷底に、倒れたそのまま眸を閉じている。何度呼んでも反応はなく、陽がどんどんと陰ってゆくのへとその姿が呑まれてくばかり。問題の瘴気のせいだろか地盤も脆く、だからこそ足場も崩れていての細道で。こんな場での切った叩
(は)ったを繰り広げれば、少なからずこういう事態にもなろうことは織り込み済みであった筈。現に、何人かは久蔵も勘兵衛も太刀の圧にて吹き飛ばしてもいたくせに。だってのに…選りにも選って、気が動転した賊を庇ったその反動、引っ張り留どめてやったのと入れ替わるようにして、勘兵衛の側が落ちてどうするか。

 「島田っ!」

 あの上背がこうまで小さく見えるのだ。それだけでも随分な深さだと判るのに、だのに姿だけくっきりと見通せるのは何たる皮肉か。表情のすみずみまで見て取れることが居たたまれなくて。無事かどうかも判らぬままなのがじれったくてしょうがない。

 「……勘兵衛っ!」

 思えばそれほど通りのいい声ではない。それでも届けと張り上げて、しまいには日頃は呼ばぬ下の名でも呼んだが、やはりびくとも動かぬ壮年であったものだから。

 「あ、久蔵様っ。」
 「いけねぇっ!」

 戦意を失した賊らをいよいよ引っ立てにと、間近になだれ込んでいた捕り方らから。わあと、制止の手が幾つも伸びたが、そのどれもが空振った崖っぷちから。山間へ沈みかけてた夕陽の赤へと、その身を溶け込ませての戻りたいかのように、深紅の長衣ひるがえし、若い侍が宙へと飛んだ。その思い切りのよさは、潔いというよりも…絶望しての身投げかと思えたほどの、あとさきを見ぬ跳躍であり。お縄を受ける身の賊どもまでもが、あの後あの侍は無事に上がって来れたのかと、案じてなかなか静まらなんだというのが、後日談を締めくくったくらいに。印象的な幕引きとなった一件であったという。






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  *本館でも丁度“やっとお”の話を書いているので、
   似た段取りを並行して書くのはなかなかに大変です。


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